だれが残すのか、なにを残すのか、どう残すのか:Page⑤
作品の代替性 ーー 何が置き換え不可能?東:一つ思ったのは、この台本だけで再演・再現ができるかというと、恐らくできないのでは......ということです。なぜならば、この台本は「ジャイアント食堂」という上演を補助する機能としてつくっていて、順番的には後付けなんですね。先にやることは決まっていて、それを文字化しているので、出来事のポイントだけが書かれている。実際には、その日その場で起こること、例えば人がめっちゃビンゴに集まるとか、予測不可能で起こっていることがすごいいっぱいあって。そういった、その時にならないと分からない出来事もOKにできるように、決まっている流れだけを軸にして書いて、それを台本と言い張っている(笑)。なのでこれは、その場にいる時に同時に見て面白いと思えればいいなと考えてつくりました。
そういう事情もあって、この台本が今後活用できて役立つかというと......役立たなそう(笑)。むしろ、変わっていくことが大事なのかなって思います。 加藤:「再演」って言った時に、何の要素が残っていたら「これはジャイアント食堂だ」って呼べるのかということだと思うんですよね。八戸だからこうしたとか、この場所だからビンゴをやったのか、とか。朝一番早く会えるアイドルのハッチが八戸にいるから、ハッチのパフォーマンスがあったわけで。 宮武:pacchi(パッチ)ね。「パ」ッチ。日本一朝早く会えるアイドルpacchiね。 加藤:パッチ。はい。 例えば、千葉の美術館でやる時には千葉の地元のアイドルを呼ぶかもしれない。30年後にやるんであればアイドルじゃない人を呼ぶかもしれない。結局、そこで要素として何を残すのかっていう話になるよね。居間 theaterとしてジャイアント食堂を残すためには、何を残すのかっていう話ができるといいのかなあって思いますね。 𡈽方:何が置き換え可能かっていう。 冨田:ちなみに、(早稲田大学の)演劇博物館は確か、収蔵物として台本と記録映像と記録写真の3つあったかと思います。能の面とかそういうものも一応収蔵されてるけど。基本的には台本があって、上演例として一応、その時の写真とか映像が収蔵されている。でも本尊は、台本、みたいな。 東:演劇もやったら消えてっちゃうから、アーカイブとなるとそうですよね。台本があれば「再演」は可能になるわけだから、そういう意味では演劇で代替不可能なのは台本とか戯曲ってことになるか。 少し話が変わるのですが、国立国際美術館でパフォーマンスの作品が収蔵されたという記事があがってて、それは海外の美術のパフォーマンスアーティストの作品でした。収蔵の物理的内容は、指示書とパフォーマンスに使う石?でした。パフォーマンスの指導者が作家から派遣され、訓練を行ってパフォーマーが実演する、と。それによって再演可能になる。作品の方法論というか、骨組みの部分みたいなものが収蔵されたという印象ですね。 ここには、さっき𡈽方くんが言ったように、何が代替可能で、何が置き換え可能じゃないかということがあって。記事の話で言うと、パフォーマーは訓練すれば置き換え可能ということになる。 じゃあ、八戸市美術館のジャイアント食堂においては、どの人は置き換え可能で、何が置き換え不可能なのかと考えた時に、線引きがすごく難しいなと思ったんですね。 美術のパフォーマンスの骨組みを考えた時に、パフォーマンスとして表出されること、行為自体は概ね定まっているものが多くて、行為する人が訓練を受けて実行する。それゆえに代替することができるという仕組みがある。 対して、そもそもジャイアント食堂にはたった一つの目指すべきパフォーマンスが明確にあるわけではないし、最終的な形がはっきりしていない。固定された、完成された形というのが無くて、変わる可能性がある。変わっていって良いと思ってやっている。それが要素を選ぶ時の難しさであり、ポイントなのかなと。何が骨組みであって、何がどんどん変わっていっていいのか。 その中で、時間の考え方とかはポイントかもしれません。12時になると時報が鳴って、黒い服を着た人たちが壁をこの並びで並べる、みたいな段取りが多々あった。それは舞台とか演劇のキッカケのような感覚ですよね。色々あっていいけどこの段取りは譲れないとか、そういうことは結構あったなと思い出しました。 「ジャイアント食堂」は、いわゆる美術の指示書とかダンスの振付のような、具体的な「ここからここにこう動く」みたいな指示はないので、形は変わっていくし、保管の仕方が難しいのだと思いました。 加藤:居間 theaterの作品は場所性をすごく大事にしているというか。そもそも、ジャイアント食堂ってジャイアントルーム以外にもいけるのかっていう話があると思うんですね。僕はよくアートプロジェクトの記録写真とかを撮るんですけど、こういう催事と作品の中間みたいな作品って、寄ってアップで撮ってるともう何やってんだか分からないっていうか。そこら辺のカラオケのおじちゃんの写真をアップで撮ったら、ただのおじちゃんがちょっといい空間で歌ってるだけの写真になっちゃう。そういう時にどう写真を成立させるか。おじちゃんが歌っている状況をアートプロジェクトの写真にするっていうことは、僕は結構、ハコとか場所に対して合わせて、ある種のテクニックでやるんですけど。それに似たところが居間 theaterの作品にはあるような気がしていて。場所がここだからこれが起こっているっていうのは、すごく重要な気がするんですよね。 東:じゃあやっぱpacchiは必然なんだ。
加藤:もしかすると、その場所との関係性を言語化すると、記録として必要な要素も見えてくるかもね。 東:今の話で言うと、置き換え可能じゃないのはジャイアントルーム、という可能性はありますよね。ジャイアントルームがどういう場所なのかっていうことは、やっぱり肝かなと。 少し話が逸れますが、最初に台本を考える時に、「広場」っていう言葉を使ってみたんです。結局やめたんですが、ジャイアントルーム自体を「広場」と言って、演劇の場面としては広場に人がやってきて去っていくという考え方でつくり始めました。ペーター・ハントケという作家の戯曲で、群像劇として広場に人がやってきて去っていくという作品があって。そういうイメージがジャイアントルームだったら可能そうだなと思った。人がやってきて、居てよくて、去っていっていい。必ずしもずっとそこに留まる必要はなくて、みたいな。流れていっていい、みたいな。「ジャイアント食堂」はそういう空間なのかなぁ....?って勝手に考えてました。 |